部落解放・人権政策確立要求京都市実行委員会

第36回大会 開催

 

 129日(金)、京都府部落解放センターにて部落解放・人権政策確立要求京都市実行委員会第36回大会が開催され、45人が参加しました。司会の部落解放京都地方京都会議の高橋直樹さんが、開会のあいさつをおこない、議長団に京都市小学校同和教育研究会の東原幹人さん、京都市中学校教育研究会人権教育部会の安田知史さんが選出されました。

 はじめに、市実行委員会より吹田良忠会長が臨済宗妙心寺派の法務部長という立場から、日本の宗教者が教団の枠を超えて差別撤廃の取り組みをおこなうに至った経緯として、「1979年、第3回世界宗教者平和会議において、日本にもインド(カースト制)と似た部落差別問題があるのではないかとの指摘に対し、強固に否定し、議事録からその個所を削除させるという行為があり、それに対する糾弾確認がきっかけだった」と述べ、さらに「仏教教団においては、差別戒名、過去帳の改定、身元調査お断り運動などを展開してきたが、いまだに確固たる総括や検証はすすんでいない。己の差別心を深く見つめ、払拭する普段の努力が必要であるが、一人ではむつかしく共に取り組む仲間がいてこそと思う」と挨拶しました。

 来賓あいさつとしては、京都府実行委員会から西島藤彦副会長が「去る1130日、ユーチューブにおける鳥取ループの部落探訪の情報190本が全て消えた。人権研究所の組織がネット上の差別情報の削除を、ネット署名で呼びかけたところ、短期間で3万に及ぶ署名が得られたことや、これまでの自治体でのモニタリングや、法務局への削除要請などの効果があったのではないかと思う。20年前、小泉政権時代に『人権擁護法案』が閣議決定されたものの、勝共連合と連携した一部のグループが反対運動を展開してきたという矛盾した内容が露呈している。世界の人権状況から何周もの周回遅れをしているわが国の状況だが、引き続き全ての人たちの人権確立のために活動されることを期待する」と訴えました。

 次に京都市を代表して、古川真文文化市民局長が「全国水平社創立から100年の今年も残すところ3週間余り。島崎藤村の『破戒』が映画化され私も鑑賞しましたが、みずからの出自に苦悩しつつも最後には前向きに生きようとする主人公に胸を打たれた」と挨拶し、「人類の普遍的価値である人権を基本とする考え方や行動が一層重要となっている」とする市長のメッセージを読み上げました。

 今年も昨年に引き続きは感染症拡大予防の観点から、ご来賓については京都市議会及び労働組合の関係についてはメッセージでの対応をいただきました。部落解放同盟京都市協議会事務局次長、西田信彦さんがメッセージの読み上げをおこなったあと、来賓の方々が退席され、議事の進行に移りました。

村上光幸事務局長が35期の活動報告を行い、京都商工会議所の荻野達也さんが会計報告。古谷宏さんが会計監査報告をおこない、参加者の拍手で確認しました。続いて、事務局長より基調提案、また会計より第36期予算案の提案があり承認されました。役員人事の選出を、小林茂市協事務局次長が提案しました。吹田良忠(ふきた りょうちゅう)さんが再選出され「また一年よろしくお願いします」と挨拶しました。

最後に、大会決議案が、同和問題に取り組む京都府宗教者連絡会議の小泉顕雄議長から読み上げられ、全員の拍手で確認されました。

  最後に閉会挨拶を、実行委員会副会長に選出された木下松二市協議長が行い、「ロシアによるウクライナへの侵攻は、終わることなく今も続いています。差別の延長線上に戦争はおこることを解放運動で、私は学びました。つまり差別をなくしていくことが、平和な世の中を築いていくことにつながっていくということです。私たちは、本日の大会を契機に、差別のない社会、人が人として自由に生きていく社会の実現のためにこれからも活動していきましょう」と述べました。

 全ての議事を終えた感謝とともに議長2名が降壇し、第36回大会を終了しました。

                   *******************************************************************

  引き続き京都市実行委員会の独自事業「考えてみませんかーあなたの人権、わたしの人権」が開催され、今年は「私が歩んできた道〜『部落差別とは』」と題し、NPO法人やわた人権福祉ネット理事長、新谷章恵さんに講演をいただきました。以下に要旨をまとめます。

私は1955年生まれの67才です。京都府南部、山城の八幡、京都府禍の最大の部落で生まれました。そして、今もそこに住んでいます。解放運動して35年ほど。現在、やわた人権福祉ネットの理事長です。地域の中でデイサービス事業として手作り弁当と介護予防、手芸や健康体操をしたりしながら、1日を過ごしてもらうという取り組みで、15~6年になります。そして、部落解放同盟六区支部の支部長をしています。今日は、私が運動にかかわり、役を持って見えてきたこと。何が部落差別なのかを皆さんに伝え、わかってほしいと思う。

192233日全国水平社が京都岡崎公会堂で創立されました。続いて42日に京都府水平社が創立され、その100周年記念集会では、今年、京都府連女性部として「竹田の子守唄」を歌いました。口減らしのために、小学校にもみたない女の子たちが奉公に出されるんです。何度唄っても胸が砕けます。小さい子が家に帰りたくても帰れない。家に帰ってもご飯がない、食べられないという歌です。

 1965年には同和対策審議会答申が出され、1969年には特別措置法が制定されました。各部落では不良住宅を立ち退き、府営住宅、市営住宅が建っていきました。水平社ができて、同盟が旗揚げし、運動があってこそであり、保育園を建てて、子どもの成長を助けてきました。6畳一間の狭い住宅、うちもそうでした。そこに5人が住んでいました。結婚差別、就職差別、ネットで部落を暴く動画を流すこと、部落差別は今もあります。でもそれだけが差別じゃないんです。わかってほしいことは、私たちが生きてきた中で、差別を引きずっているということ。部落差別の結果としての、今、ここでの生活実態があるんです。父は土方で孫請けの日雇い、「俺は小学校にも行けへんかった」が口癖でした。母は、戦争孤児と間違われて部落にもらわれてきたような境遇で、やっぱり学校にもいかない。結婚するときに戸籍がないということになり、何とか実の親にたどり着いて就籍しましたが、絶対的貧乏で、子どもが子供の面倒を見る生活。今でいうヤングケアラーですね。

 私の上には、一人お兄さんがいましたが、昔のことで、何の病気かわからず赤ちゃんの時になくなった。父が自転車に乗って母親とおんぶした赤ん坊を連れて医者へ連れて行った時にはもう手遅れだった。母はいつまでも悔やんでました。

 私は中学を卒業してすぐ就職しました。実は、私の時代にはやっと高校があちこちにできて、うちの地域にも大きな高校が一つできました。高校なんて、クラスで1人か2人しかいけなかったところ、半分くらいの子が行けるようになって、学校の先生が家庭訪問に来て「章恵ちゃん勉強できるし、高校できるさかい入れてあげて。奨学金もあるよ」と言ってくれました。うちの父がどう言ったかというと「先生、そう言ってもな、結婚するときに金にならん。女みたいなもん学問していいことあるかいな」と。悔しい思いしながら、あるアパレルメーカーに就職しました。

その時分にもなんとなく後ろ指さされている感覚はあったものの、部落ということは教わってもないし、知らない。本当に教育を受けていないということは、ものが見えない、わからないということです。

 夫と知り合って結婚するとき、私の叔父が向こうの両親に「部落やけどわかってるか」と言ったが「なんでこんなこと言うんやろ」と思いながら、夫のお父さんは理解者で、「そんなの人間やさかい一緒や」と、1年後に結婚することになりました。夫の母親の弟が仲人になってもらい、結婚の日も決まっていたのですが、1カ月前になって急に断ってきたということもありました。私が部落だということを知ったのが理由でした。

 解放運動へは、住宅の建て替えをきっかけに入りました。子供は上の子が小学校1年生。下の子が年長さんのときに、女性部の会議に出て、はじめて、全国女性集会へ行って、入門の分科会に入った。私もその当時は30才にもならず、若い。子供はおるけど、子どもを産んだのが18才で。そんな中で参加してる女性たちが手を挙げて、発言する。うちの父はばくち打ちで、土方で、母親を泣かせてた。うちら、学校も行かせてもらえへんかったと。そしたら、うちと一緒やと思ったんです。そして部落差別を知ったんです。何も、部落差別って、結婚差別にあったとか就職差別にあったとかと違う。うちらの生活している、そのものが、部落差別の中に生きてるんだな、ということで、ほんまに目からうろこがはがれました。地域に帰って、部落差別をなくさなあかん。どうにか、自分らを変えていかなあかんと思いました。

その頃保育園を建て替えるということになって、保育建設闘争では、子どもの環境、保育の環境。ただ預けるだけの保育じゃないというのを、山城同和保育研究集会や、全国の研修で勉強しはじめた。同和保育というのは特別じゃない。今は7人に一人が貧困の子ども。貧困の子どもって、子どもが貧困なんじゃない。親が貧乏なんです。そんな背景を持っているのは、地域だけじゃない。一般地域の中でも格差が出てきている。だから、同和保育、同和教育は、何にも特別なことはないんやで。しんどい子供の背景をみながら、寄り添ってあげないと、子どもがゆがむ一方やで、ということを私は、先生方や保育士の講演の中で伝えています。どこの保育園、どこの学校に行っても通用するよと。同和保育というのはどこのしんどい子をみても、背景を見ながら、寄り添うという教育保育が必要だということで、今もやっていて、南ヶ丘といううちの地域で、二つの保育園の保護者会の私がかかわる「手をつなぐ会」というのを、もう30年近くやっています。

教育の格差を解消しようとしたら、3代の時間の経過が必要と言われます。実際、私の子ども達二人も大学に行ってほしかったけど、本人の希望もあってかなわなかった。やっと、息子の子、私の孫に行ってもらってる。

30年以上解放運動して、180度自分の人生が変わりました。地域で子どもたちが、どうしたら何の支障もなく自分の夢に向かって、就職できたり、結婚できたりするような世の中になるように、地域で、また解放運動のなかで、まだまだこれからも一生懸命がんばってやっていきたい。皆さんも、身近なことから気が付いたら行動してください。それが差別をなくす一歩です。躊躇していたらあきません。