水平社90周年に思う  松井珍男子(朝田教育財団理事長)

 

(m:松井s:宮崎)

 

s:水平社創立から来年で90年という節目を迎えますが、若い頃に運動に関わってこられた松井さんはどのように思われていますか。

m:先だって話があったので、もう一度水平社の資料がないかと思ったら、1920年代をまとめた本がありましてそれを読みました。この記録によると192233日に全国から3000人、警察発表でも2000人。かなりの人が集まったという記録がある。この運動は燎原の火のごとく広がっていったと僕らも聞いていたけども、その年4月には、京都の水平社の創立大会があり、全国各地で次々に創立大会がやられた。もう一つすごいなと思ったのは機関誌の発行部数と料金を徴収した表があるんですが、大会後23年後には、もう3万を超える部数を出してるんですね。燎原の火というのはこういうのを言うんだなと改めて感じました。しかし私は73歳で、私の生まれる18年前に水平社ができていて、それから数えても、僕らの孫も入れたら45代、あと10年で100年。この運動を立ち上げた人たちが、本当に部落解放のよき日を実現するのをどういう所に想定してたのかなと、こんなに長いことかかると思っておられたのかどうか。私自身も子どもの代には、完結しておいてほしいな、という思いで運動に取りかかりましたけどね。

s:当時で言ったら、21世紀には持ち込まないとか、そういう大きい目標がありましたね。

m:だから1世紀掛って、まだこんな状況なんですね。

s:初期の段階では個人の徹底糾弾であったのがだんだん社会的背景にせまって、それは朝田さんが理論づけたものなんでしょうか。

m:周年という意味では、オールロマンス60年ですよね。このときからやはり、観念じゃなしに、差別発言や差別意識が出てくるのは、やはり部落の悲惨な実態にあると、それで環境改善と、教育保障と、仕事保障と、それから社会意識として市民の中に差別観念が存在しているんだと、こういう理論的な提起をしたのは、やっぱり朝田委員長でしょうね。s:そのことによって、事業がずっと進められていくんですが、京都市の方もやはり悲惨な現場を改善していこうとした。松井さんが役所に入られた頃はどうでしたか。

m:最初に勤めたのは、民生局同和係でした。そこでは昭和364月、高校生対象の「京都同和修学奨励資金給付規則」、2年後に大学と一本化した「京都市同和奨学金給付規則」の起案をしたんですよ。民生局で起案して法規係にみてもらう。法規係の係員は後に司法試験にとおって弁護士になった加地大和さんでした。で、彼にいろいろと朱を入れられてね、それを今鮮明に覚えてますね。

s::昭和39年、同和教育方針というのが出ますよね。僕が青年部を担当していたとき、教育委員会が担当する県連もあったのに、京都は民生局だったのは、同和係松井さんの起案だったんですね。

m:もう一つは僕は、同和係から錦林の隣保館に行って、その後昭和42年社会教育課に行ったんです。で、当時婦人講座というのがやられていて担当したんですよ。その時、一つは識字学級を新たに起こそうと。これを私が起案して千本から始めたんかな。それからもう一つは、婦人講座で料理講習をやっていてね、大和料理学校の田中先生に来てもらってやってたんですが、これを変革していこうと。保健所の栄養士さんによって栄養改善の講座にしていく。そうすることによって食生活の改善につながるし、もう一つは調理師試験の免許の手助けをして、女性たちに調理師の資格をとってもらって、学校の調理師という就職へつなげていく、そういう思いで新しいのと改善と二つのことをしましたね。

s:これは松井さんならではの先を見る視点ですね。識字学級という発想というのは、当時あったんやろか。僕らは当たり前みたいになってるけど。

m:それはね、福岡の識字学級の立ち上げを、どこかの研究集会の報告で聞いて、これは京都もやらなあかんということでね。それともう一つは、民生局長のときのことで、運動関係の方々にも迷惑をかけたのは、同和保育所の一般開放ですね。いつも議会で言われてまして、保育課の方とも協議しながらやった。とにかく、学校に行ったら一般の子と一緒に勉強していくんだと。同和保育所だから同和の子だけというのはおかしい。部落解放運動の闘争の成果として保育所ができたというのはわかるけども、それを開放して、皆さんにも理解してもらいながらやろうと。そういう困難な交渉を課長連中を伴って皆さんとやり合いした。やりきったら新しい地平が開けるからがんばろうとね。しかし、現実を今見たら、一般の待機児童があっても同和保育所は、まだ定員が割れている。やっぱりね、社会意識の中にある一般市民の差別感情というのはなくなっていないというのが現状ですね。それから、保育料の改定について幼児については低所得対策はきちんと打ちながら、余力のある、夫婦共働きで市役所行っているという人については、これは応能制で一般と同じようにきちっと払ってもらうということで、幼児保育料については5年間をかけて段階的に。乳児は金額が高かったから、これは5年では厳しい。10年間かけてやってきましたね。そういうことが、運動の方から見たら批判の強いことであったかもしれないけど、時代が改革を必要とすることを思って、私は取り組みました。

s:今のお話でも、改革にともなっては、ソフトランニングで段階的に、セーフティネットをはって、というのが松井さんの姿勢だと思うんですが、現在の京都市はいっきになくしていこうとする姿勢で。奨学金の返還についても、5年ごとの所得審査に対して、どう配慮するのか今私たちが一番心配してることです。

m:そこは配慮してほしいですね。松本防災大臣の辞職にしても、また、橋下さんの記事にしても、結局ルーツをあらわれて、そしてそれが、テレビや新聞なんかに大きく報道されて、やっぱり根っこには、蔑視や、部落民やったらやりかねんという論調になってる。そういう意識がある中で、今言った奨学金のことで結婚してる相手や親との関係とか、出てくると思いますね。それについては、きちっと配慮したやり方を研究してほしいですね。

s:もう一つ、松井さんは朝田教育財団の理事長をされていて、財団40周年のあいさつのなかで、いわゆるコミセンの廃止について言及しているのが記憶に残っているのですが。

m:京都市は同和対策として隣保館を設置したけどね、隣保館というのは、社会福祉法という法律で決められた一般施策やね。それを同和行政を終結したからといってね、隣保館まで閉鎖するというのはいかがかな、というのはあるんですよ。今、部落の中は高齢化が急速に進んで、若者が出て行って、お年寄りのまちになっている。無年金者か、もしくは低年金者で、生活保護。そういう生活の苦しみをサポートする隣保館が、僕はあってもいいんじゃないかなという思いでそれは書いたんだです。

s:あと10年もすると、高齢化率が50%と言われています。

m:介護保険制度ができたのが2000年でしょ。民生局長だった時代は、介護基盤の充実が急務だった。当時、千本には紫野特養、西三条、田中には高野デイサービス。で、改進、辰巳につくりましたね。

s:一般対策ですが、地域的に配慮してもらって。

m:だいたい部落の人っていうのは、そういう所に行きたいんやけど、知らん人ばっかりやったらよう行かんとかね。あるわな。

s:それはもう、今もありますね。松井さんは、生まれは和歌山の杭ノ瀬と言っておられて、市内ですよね。

m:私は1938年和歌山生まれで、家は7反ばかりの貧農でした。6人兄弟の4番目で、姉が3人だからやっと珍しく男ができたということで名前がついた。親父は、百姓しながら同盟の支部長と、民生委員と農業委員としてましたね。比較的大きな部落で、500世帯くらいありましたね。そこで同級生が、30人ほどおったけどね、高校へは地主で金持ちの家のお嬢さん1人が全日制高校に行って、僕ともう1人の女の子が定時制高校に行って、だから30何人かのうち高校に行ったのは3人。1割やね。和歌山では、同和教育のことを「積善教育」と言っていて、紀北の高校生研究集会を高野山でやったときは水平社創立者の1人である西光万吉さんに講師に来てもらったこともあります。そんな活動もしてたから、大学に行きたいなと思って立命館の2部を受けたんです。

s:その時、京都に身よりや親戚はいたんですか。

m:その頃は、同盟の近畿ブロックの会議が大阪や京都や和歌山であって、そこで朝田委員長や三木一平さんとか親しくなったから、うちで面倒見るから来いと言われて。田中の委員長の親戚の家に下宿したんです。

s:全国から来てたんですか。

m:そうそう。あのとき、同じ下宿に6人くらいおったんかな。岡山、兵庫、高知。それで朝田学校と言って、夜2階でいろいろ理論学習をしてたな。大学へは日本育英会の奨学金を借りて、4年間行ったんですが、働いて最後まで返還していましたね。

t:その時の奨学金はいくらでした?今とは物価が違うだろうけど。

m:5千円くらいじゃないですかね。年間6万円程。

s:それでなんとか授業料が払えた。

m:京都市役所のアルバイトを昼間はしていて、正職員化闘争というのを組合つくってやってたんですよ。そしたら、準職員制度を作るということになって、試験を受けた。それで、準職員に採用されたのが、1960年の9月。その時の月給がね、6900円。こんなんで生活していたんですね。

s:最後に松井さんの、行政・運動に対する提言がありましたらお聞かせ下さい。

m:それで悩んでたのは、自分の立つ位置というのか、来し方の総括が自分自身できてないんですよ。若いときに運動していて、行政に入って、その中でも幹部職員として関わってきたという来し方についてこれで良かったのかなという思いがあるんです。だからおこがましいので控えさせてほしい。

s:僕は、当然、運動と行政の間には矛盾があると思うんですよ。ただ、松井さんの背中を見て希望を持っていたのは、自分も頑張ったら何かになれるのだと。ゼッケンをはめてないときも、自分の後には後輩が見てると意識していました。今日は本当にありがとうございました。