「水平社90年に思う〜部落解放運動往来〜」−福田春三郎さん−

 

 来年3月3日に水平社90周年を迎えるにあたって、京都市内で古くから解放運動に携わってきた諸先輩方に、「90年」の思いを語ってもらうシリーズを企画しました。

 第1弾は、福田春三郎さん。1923年2月1日生まれの春三郎さんは、運動仲間から「サブ兄(にい)」の愛称で呼ばれ、田中支部支部長、京都市立浴場運営協議会会長(浴場運営財団現顧問)、京都市政協力委員50年などを歴任しながら、常に地域の世話役活動に徹し、今も田中の改良住宅に暮らし現役で活動しています。腰を痛め遠くへは出にくいことから、一度は断られたインタビューですが、ご自宅に伺い、お話を聞きました。

(インタビュアー:宮崎茂市協議長(M))

 

M:来年で水平社90周年ということで、話を聞かせてもらいたいんやけど、サブ兄は今88歳やんな。運動を始めたのはいつ頃なん?

春:俺は運動に入ったのは、戦争が終わってからや。軍隊から帰ってきてから。俺はシベリア帰りやから。17歳で徴用されて、神戸の川崎工業で潜水艦を作ってた。18年兵、19年兵とあって、普通は二十歳で兵隊。俺は21で福知山連隊。きついよ。それから満州にいて終戦からはシベリアで捕虜や。その間2年半あまりな、風呂に入ってないんや。だから、こっち帰ってから一番何が大事かっていうと、風呂や。ということで解放運動も大事やけど、風呂が大事。年寄りの中に入って運協(京都市立浴場運営協議会)の立ち上げからずっとやってきた。

M:すると、復員してきたのは?

春:昭和23年。昭和33年に京都市に入った。俺がトップやった。紫野小学校にいた。一度な、俺と朝田善之助と、当時教育長の大橋俊有さん、3人で話をしたんや。今の学校の現状はこういうことやと。兵隊が帰ってきたんや。子どもがわーっと増えて、一学区に48学級や。考えてみなされ、パンクするわ。教室あらへんさかい講堂や作法室もみんな教室や。そんなんでな、用務員がおらへんや。そん時に俺な、トップバッターでいかないか、どうや、ということで、やってみるわと。それが雇用(政策)の第1番。1年やって、その1年の経過を見て、あとOKになったから、2番目が松下年男さんや。

M:後の学職労の委員長や。

春:それで、どんどん入れたがな。そいで、今度男と違って、女や。給食調理員とかな。いろんな仕事がある。それで、雇用のなかにどっとどっとと入っていったんや。

M:僕が知ってる時代で昭和48年以降のいわゆる雇用促進闘争。それくらいから、どんどん採用されていったんや。だから、サブ兄には、今の若い人に、当時の雇用がどういったものだったのかどんどん発信していってほしい。サブ兄が就職した当時、給料はどのくらいだった?

春:初任給は8千円。でな、休みなし。日曜も休みはない。朝、8時に出勤する。で、宿直する。で、あくる日の夕方に帰る。男は二人いるわけ。だから二日目に帰るわけや。で、朝行って、また宿直や。そんなんばっかり1年間繰り返して、そんなん、休みあらへんということで、学職労の運動で、あの時は、革新から市長がでたことがあったやろ。富井さん。で、市長がきて休みが取れるようになったんや。それまでな、8000円や。

ほんなら、うち、坊主(息子)を高校にやるのにな、学費が7000円や。ほな、おばはん(妻)は日雇いや。俺が宿直行ったら400円や。だから、おばはんのニコヨンの賃金とそれで生活していたんや。

M:そんなとき奨学金てなかったやろ。

春:そうや。そんなときに、奨学金の運動が出てきたんや。で、うちの坊主が卒業するときに奨学金が出るようになった。俺は、俺だけでやってきたわ。卒業してとたんに出るようになったんや。松下が学職の委員長になったのは、その後のことや。初代の委員長は大島久次さん。市労連の委員長になるので二人で話して、お前は組合でやるのか、だったら、俺が解放運動をがんばると言って、俺が支部長になったんや。その間にごちゃごちゃと、山野さんとあっこらが、朝田となってたんや。俺はどっちも、同じ運動してるのにな。俺はどっちでもやったる。俺は表面にはあんまりでーへんかった。

M:サブ兄達の運動があって奨学金できたけど、それが今になって返せって言ってる。これから裁判もあって借りた子が訴えられる。そんなん、どう思う?

春:なにぬかすんやと。当たり前や。ただで手に入れたんと違うで。運動してやっと京都市との話し合いのなかで、それはできてきた。はっきり言うたり。

M:これからの子は奨学金もない雇用もない、そんな中で小っちゃい子がいる。この子らが高校・大学行くようになってきたらまた昔に戻るんじゃないかと心配してる。

春:今、民主党が言っているようにな、高校授業料無償やろ、やっぱり生活に関係するからや。今更、何を返せやな。

 

M:昭和23年に復員して、京都市に入ったのは昭和33年。その間の10年間は何をしてたん?

春:下鴨警察署のとなりに福田という靴屋があった。親父の兄さんがやってて、靴の仕事をしていた。そやから、仕事はあったよ、俺は。

M:そのとき靴職人はいくらくらいもらってた?

春:日当で300円や。まだそのときは結婚もしてなかった。叔父と叔母で、うんもすんもない、結婚せいということでなったんや。おばはん()はしっかりしていた。大阪の国鉄行ってた。すごいでこのおばはん。あの当時、国鉄の闇の切符だってどんだけ世話してやってる。運動も協力してくれた。やりかけた頃はほとんど家におらへんわ。だから、わしの給料でも一応家にいれるけどな、自分で給料もらってるさかい、自分でできるといって、運動に使えと言ってくれた。そんなおばはんだった。だから、俺は随分気楽、めぐまれてた。

M:今の若い子に、サブ兄から言いたいことはある?

春:運動が堅パンになってるな。カチッとせなあかんという気持ちはわかるけど、わしは、支部のためだったら協力するさかい、お金も使うんだったら俺はかまへん。敬老会でもやりゃあいいんや。運動に使うのはかまわへんのや。旅行会とか敬老会とか言って、形は違っても運動を広げると。昔みたいに一挙にはできんけど、事業を、運動を広げるために使うときは使う。そうでなければ、運動が消えてしまうわ。

 

M:今の生活については自分でどう思う?

春:この年になって、再婚した嫁は部落の人と違うで、四国の人や。だから部落が好かんのや。始めは俺も部落といわんかったんや。部落というのではなく、人間を見ろと。そんなんでもま、いいもって、一緒に来てるわけ。あっちの市営住宅に50年おったで。3回部屋の改装があったけど、50年住んで、今やっと、ここに移った。公務員の年金、捕虜の年金、軍隊、全部掛け合わさって今、年金を受けとってる。だから、私にしたらちょっと、多いかなというくらいをもらってる。

シベリアの本も書いたし、解放運動もやった。ただ、解放運動やってるから、シベリアの裁判にもいけなかった。今、やっと裁判に去年から行ったんや。そしたら、裁判を京都でやって負けたやん。そして大阪の高裁、そこでも負けた。最高裁に今行ってる。そやけど皆年取ってる。そりゃそうや。わしが88歳で一番若いんやで。90歳でも元気なのばっかりや。そのかわり、裁判でもすごい厳しいこと言って来る。わしらなんか、まだ生易しいわ。零下50度のなかで仕事したら、まず鼻が凍傷になる。人に言ってもらわないとわからない。

この町内でもわしより年いったのいいひんやん。この間かろうじてこの棟の自治会を発足したんや(20118)。で、役員になってくれと言われたけどそれは人に譲った。でも参加はするよ。町内におって何もせーへんというのはな、あかんて。

M:サブ兄、そういうところ昔とちっとも変わってないな。

春:あそこの21棟にお地蔵さんがあるやろ。わしは、兵隊行くときもあのお地蔵さんにおまいりして無事帰京を願ってまいったもんや。で、無事に帰ってきたやろ、そやからお地蔵さんのおかげだということで、いまだに俺はずっと見てる。あのお地蔵さんは、あの道路の木の前にあったんやで。それを移動して京都市と交渉して土地を借りて21棟をたてた。今では面倒見てるのも3人くらいや。それでもな、お賽銭が年に5万円くらいになる。地蔵盆には足しになる。

M:あそこの地蔵さんは、僕も部落の地蔵さんだと思ってる。今日はありがとう。