水平社90周年に思う−井本武美さん

 

(I:井本 m:宮崎 於:左京西部いきいき市民活動センター)

 

 

m:水平社90周年に思う、インタビューの最終として井本先生に、特措法以前の運動から今現在への思いをつなげるお話を伺いたいと思います。最初に生い立ちからお聞かせ願えますか?

I:僕は193810月、兵庫県の三木市、吉川町借潮という部落に生まれた。6人兄弟で上が姉2人兄1人。下は弟がいたけど白血病で死にました。僕が大学生の時。

m:こっちに来るきっかけは何だったんですか。

I:立命館大学に西洋史学科が新設されたことと、小豆島で第1回の青年集会が開かれて、僕はそれを高校生のときに朝日新聞の記事で見つけて、京都の立命館大学に部落問題研究会があるというのを知ったんですね。自分の部落民としての立場は、子ども時分から、年寄りが「うち・あっち」という言葉を使うのを聞いていたから、それがだんだん部落問題だとわかってきた。戦後すぐ兄貴や姉達は青年団活動の会合で部落問題の話をしていたり、それから叔父が兵庫県連の委員長をやってた小西弥一郎でした。私の母親の弟で、水利権問題で闘っていたことなどを子どもながらに聞いて知っていたから、生活の中で自然に部落問題というのが意識の中に入っていったんだよ。

m:高校は地元?

I:金物の町で有名な三木市の三木高校。片道16キロを自転車で通ってました。

m:それで、つてもなく、いきなりこっちへ来たわけですよね。

I:等持院北町に遠い親戚筋の植木屋があるんだけど、学生時代の当初そこでアルバイトをした。土日に、金持ちの家の庭掃除したり、四条通をリヤカー引っ張って荷物を運んだりしてたんだけど、やがて勤評闘争が1958年にあったときから、もうここ(田中)に来ることに決めたんです。それで大学の食堂でアルバイトしながら、夜、子ども会をやってました。

m:そのとき奨学金というのは?

I:育英会というのは学力が高いか貧乏かどっちかで支給される。私は学力も低いし、家は貧乏だけどそこそこ田んぼがあったからもらえない。それでも学費だけ出してもらって、毎日の食うもんは稼いでました。

m:大学に入ってすぐ、研究会に入ったんですか。

I:それが入学して探したけど見つからない。というのも兵庫県佐用町の山林解放闘争に立命の部落研はオルグに入ってて、秋にその発表会をした時にやっと出会えました。そこで運命的な出会いをした部落の兄弟が大阪日之出の北井浩一という米屋の息子です。これが大賀君や山中君の運動の先生になる。大学4年生の時には、僕は単位を全部取ってしまったので、古い水平社時代の資料を書き写したりするアルバイトしながら、もっぱら専従的なオルグになって、朝田委員長のもとで活動することになりました。それから京都市内に要求闘争を行いながら支部を作っていったんです。その時一緒に活動したメンバーが、駒井省三さん、藤谷吉兼さん、塚本景之さんとか。実際にビラまきながら集会から組織活動は、若者が担当しました。夕方5時頃に、日雇いの仕事から帰ってきたおばちゃん達に「今晩来てや」と言ってビラまきして、隣保館にアンプ据えて2時間くらい演説するっていうのが活動スタイルだった。

m:僕ら子どもの頃でも、隣保館におっちゃんやおばちゃんがいっぱい寄って、役所と交渉したのは見てましたね。

I:私たちはその段取りから、呼び込みから全部やる。おもしろかったよ。解放運動。どんどん人も倍倍集まるし、組織は出来るし、闘争は勝ったから。その頃は部落民への施策も予算も法律もない。そこでどうやって取るかや。

m:日雇いの人を束ねて、組織して運営すると言ってもなかなか大変ですね。

I:だけど、私のようにどこの誰かわからん人間が信用してもらうには、毎日行動するしかない。同じ時間に、同じ所で。そうして交渉に1人でも来てもらったら、交渉に勝たんならん。次は倍の人が集まる。また寄ってきてくれる。そういう活動の最初はやっぱり田中の活動だった。水道やガスを付ける話から始まって、昭和345年頃やね。

m:そのときやっぱり朝田さんに。

I:必ず毎日報告して、情勢分析して、細かく教えてもらったよ。文章の書き方から。まずビラ書くのが大変やった。誰でも文章を書くとき、ごたごたとたくさん書くやろ。それを5行か6行の文章で、みんな集まれるようなビラを作らなあかんやん。

m:そんなときは、市内でどんなふうに回ったんですか。

I:要求闘争を組織することが第一。最初は教育要求、それから生活資金要求なども含めた身近な要求が多かった。同盟は、大衆を要求闘争に組織、教育して、さらに要求を高めていくという活動です。それで支部を作っていくことができた。それから京都市協を作って最初の事務局長になった。22歳の時。京都市内は旧市街に主に支部を作ったけど、オルグには川田・辰巳・樋爪、竹田はもちろん、宇治市やその他の地域へも行きましたね。その時にできなくて特措法の後に作った支部も多い。法律を作るための日常要求闘争をやった支部は、行政闘争の階級的視点というのを多少とも経験していますね。その時の運動の担い手は、日雇いのおばちゃんたち。円町に職安があってね。あの当時、河川の公園とか学校のグランド整備、児童公園など、失対のおばちゃんらが人力でやってた。ところが、高度経済成長で、土方が機械化してきて生産性が上がると、工事の単価が安くなって、このような失体事業は全部切り捨てられていくことになる。隣保館活動などを通して、僕は青年団活動でオルグ活動しようと思ってやったけど、それはうまくいかなかった。家庭を守っているおばちゃんらが中心でしたね。

m:それで、支部を作っていきながら先生自身は?

I:大学を卒業した年に教師になった。だからオルグするのは夜の仕事で、帰るのは、朝の2時頃という日も続きました。そんな生活を3年か4年続けて、それから結婚。その頃は痩せていたね。

m:学校は?

I:一番最初は藤ノ森に2ヶ月ほど、それから蜂ケ岡に3年ほど。岡中、下鴨、次に郁文中学校へ行って、荒れてる洛北中に派遣されたりもした。下鴨中時代には全同教の事務局員になって、その期間に50周年記念事業の諸活動に従事した。中央の運動方針作成などにも関わったし、解放新聞の編集長も全同教になってましたね。

m:その頃同僚からの支援や協力はありました?

I:校長は支援してくれました。同僚もおもしろくて、組合員だったから共産党の方針とも闘ってた。あの時分、子ども会が活発になって、すると共産党は独自要求を出してきたんです。部落解放同盟の「子ども会」に対して共産党の「少年団」をつくろうとしたように、同盟に結集するおばちゃんらに対しても、「生活と健康を守る会」に入れようとする動きや、「新日本婦人の会」に入れようとするなど。大衆の要求を同盟に結集して、部落問題の解決をめざす大衆団体としてそこでこなせばいいものを、部落内に別の組織をつくってくる。この急先鋒に三木一平と塚本がなったから、田中支部総会は2人を除名することにしたんですね。

m:全国行進ではどこら辺を回ったんですか。

I:僕は未組織地域での行動が任務だった。山陰、北陸、新潟。狭山差別裁判反対の全国行動の目的は、委員会活動としての取り組みでした。高松差別裁判の闘争をもう1回これに適用して再現したものです。だから差別糾弾闘争を、部落民の地位向上と結合させる。要求実現と結合させて闘う。部落解放国策樹立請願運動、特別措置法完全実施運動と結合させて行ってるわけ。

m:1964年に京都市同和教育方針というのがでて、教育とか、生活資金とか、この闘いの延長線上にこの同和教育方針というのがあるんですよね。

I:教育の機会均等の権利保障には、個々の児童、生徒が、それぞれの発達段階で適切に諸問題を解決する能力が大切でしょ。つまり、学力というものが。教育における運動の始めの始めは、部落の家の中には、学習を深めるためのものが全然何もなかったんだ。教師の子どもに対する認識も単純で、まず、注意散漫、努力不足、躾がなってない等と評価していた。ところが僕らは教育環境がその子どもを作っていると見てるわけ。そのため校長と闘わなきゃいけなかった。僕は学習センターで学校の補習をするのには反対だった。それは教室で先生が部落の子どもの習熟に関心を持たなくなるからね。養正小学校や高野中学校の先生は日常によく話し合っていた。そこで、一定の学習課題を持つ生徒の抽出制度というのを始めました。集中的に特別な技術で学力向上をはかるシステムです。その成果なのか、当時京都市では同和校の一般学力がものすごく上がった。一般の子の学力が底上げされたんです。かつて解放運動では、同和奨学生は卒業したら運動の戦士にならなきゃいけないと言っていた人々がいたけど、僕は、社会のどんな関係でもその人が、なくてはならない状態で働けば、権利が実現して自己実現しているいい状態だと思っている。社会の繋がりからいけば、部落民であるというのは1人の歴史的状態の要素に過ぎないからね。

m:最後に先生も現在関わっている、田中のまちづくりについて聞かせて下さい。

I:素朴な運動と言えばそうだろうね。とにかく地域社会が高齢化しちゃってる。まちづくりはこの中にいるものを中心に世話役活動をしようとしている。今は地域で喧嘩してる場合じゃないし、ムラの中は一緒にやらなければと思っています。対立の余地がないほど何もなくなっているのが現状だし、僕は自分が参加することで役割を果たせてるんやったら、これを続けようと思ってる。まちづくりは、ぼつぼつと行うもの。やっとNPOとして活動することになって、ここの「いきいきセンター」にも協力してますよ。

m:先生ありがとうございます。功労者表彰の案内がまた届くと思うので、90周年よろしくお願いします。

I:こんなんでよかったですか?また、何でも聞きたいことがあったら言って下さい。