水平社90周年に思う−羽室武さん(元連合会長)

 

m:「水平社90周年に思う」というテーマの今回は第2回目です。元連合京都会長の羽室武さんのお話を伺います。1991年の自治労選挙に羽室さんが委員長に立候補され、私も執行委員に立候補したその資料を今日は持ってきました。昔を思い出しながら話が聞けたらと思います。まずは、子どものころのことをお聞かせください。生まれたのは京都ですか?

h:生まれたのは福知山だけど、2歳の時には京都市内に移った。左京区の北白川で防空壕があったことは覚えてるけど、終戦の記憶はないね。

m:地元の小学校・中学校に通って、高校は?

h:鴨沂高校。

m:高校時代は普通の青年でした?

h:あの頃は勤務評定が、小学校、中学校とあって、高校1年のとき高校でもやるという話になって、生徒会で校長に意見を聞くということだったけど、途中で打ち切って帰るというので、タクシーを取り囲んで揺らした記憶はあるな。あとは、ビキニ環礁の水爆実験があって、それも鴨沂高校として円山の集会に参加しようということを生徒会で決めてね。全校生徒1800人のうちほぼ600人が参加したんかな。鴨沂高校から円山までデモして、他の高校も加わって、ほぼそれが600名。全体で1200名が参加。その頃、アメリカの水爆実験には反対していたけど、ソ連の実験は防衛であるから反対しないという府学連に対して、高校生としてはいかなる国の核実験にも反対するということで、集会の内容を変更させた。それと、卒業の年が安保闘争やった。

m:勉強はしてました?

h:大学生にまじって個人的に運動に参加して。あの頃はフランスデモといって16列くらいあって、円山の石段下の所でも隊列組んで、電車の運転手も握手してきたな。

m:学校の授業とは折り合いつけてたんですか?

h:1月2月は受験前で、一応国立志望やったから内申書は2学期に決まってる。3学期は赤点さえとってなかったら卒業はさせてもらえるからね。

m:卒業してからは?

h:大学受からへんさかいに毎日デモしてたわけや。親の手前、一応受験勉強するそぶりは見せてたけど、結果的に、工芸繊維大学の短期大学の夜学校に行って、その斡旋で京大の工学研究所の実習生ということで昼間働いて。卒業したら堀場製作所にほぼ就職できるという話やけど、助手のような仕事しかないな、と思っていたら、たまたま同級生が国家公務員の初級試験が受かって検察事務官になってたんやけど、国家公務員は給料安いと、京都市募集してるし、給料高いさかいに一緒に受けへんかと誘いにきて、で、受けたらたまたま僕が受かって19歳の11月から働き出した。

m:それから人生がころっと変わったんですね。

h;安保闘争やっているときね、労働組合も来てたし、労働組合のあるところに入りたいなというふうに僕は単純に思っていた。で、あの頃共産党で構造改革派やらが除名されていくわけ。日本には階級性があるのは社会党と共産党だけど、社会党なら意見が違ってもやっていけるから、労働組合のあるところでやりたい、それから社会党に入ってやっていこうと思いながら、市役所に入って、しかし思い描いていたのとはほど遠い。1年ちょっとしたときに、社青同というのをつくるんやという話で誘われて、それから組合活動も始めた。僕が入るちょっと前に、長期アルバイトを準職員とする制度があったんやけど、その「準職員廃止闘争」とか。

m:準職員ではなく正職員にしろ、ということですね。組合の役というのは具体的には?

h:1年目で職場委員になって、次の年に支部の書記長になって。

m:え?2年目で?

h:2年目。21歳。で、23歳で支部長になって。

m:若いな。今だったら考えられへんな。

h:もともと東山支部というのは260名くらいの支部やった。土木事務所が3カ所あって。円山と、本所と山科支所。7年半ほど東山の本所にいて、で、山科の方が共産党にとられるということで、庁内移動で山科に行った。

m:役員はだいたいトータルで何年くらい?その後本部役員になっていきますね。

h:本部は、36歳で常任執行委員になった。22歳の頃には、市役所に青年婦人協議会というのがあって、各支部から1名出て、その青婦協の役員をやった。

m:その頃思い出に残る闘いはありますか?

h:自治労が初めて半日休暇闘争というのを提起して、前日泊まり込みしてるとき、夜中の1時か2時ぐらいに市職の本部が中止したいと。それはけしからんということで、本庁だけでもしぼってやるべきだと言ったけど、結果的にスト中止となって、それやったら支部長辞めないけど、中央執行委員は辞めると言って抗議したのは覚えている。それからしばらく支部長、書記長はしなかったね。

s:方針転換の理由というのは何だったんですか?

h:わからん。共産党がすぐに「それはいい判断だ」とか言って賛成したしね。

s:そういった攻防というのは、その頃からずっとあったんですか?

h:もともと市役所というのは、共産党が牛耳っていた。僕が書記長になったときにはじめて、社会党と共産党と対立選挙をやって。大方の判断は共産党の勝ちだと言われてて、ただあの頃は、社会党系も共産党系もビラまきもようしなかった。僕ら社青同だけが50ccの原付に2人乗りでビラ配ったら、「職場でも撒いたろ」という社会党系の人はいたから、ビラ作って回って、それだけで勝ったかどうかわからないけど、勝って、しばらくは社会党自治労派が多数派になっていた。

s:羽室さんのグループの方は何人くらいいたんですか?

h:一応、委員長が松井巌さんで、あと三谷副委員長。書記長が共産党系という体制。それが、僕の入るちょっと前に、市民税の課税方式が本分方式といのに変わってね、所得が変わらなかったら税額は変わらないんやけど、市民税が上がりますということで、組合が全戸ビラまきをしたら、高山市長に三役が首切られることになって。その後も、藤木委員長が社会党、あとは共産党系という体制で、それに初めて投票選挙したのがさっきの話。若林正太郎初代委員長で。

m:それから89年に連合ができます。あの時は本来の自治労運動に戻そうという、羽室さんの強い思いがあったけど、ここでやり切らなければということでしたか?

h:勝てるとは思ってなかったね。ただ、それは共産党から統一労組懇というのをつくって仕掛けた動きで、分裂の動きがあったから、まともな労働運動ができるような市役所にしたいという思いだった。

m:分裂は「時代」だったのかな。連合というナショナルセンター。官民一体となった労働運動をやっていこうと。

h:必ずしもそうではなかった。民間の労働組合は、会社が神様みたいなところが今でもあるし、自由な労働運動ができているとは思っていない。連合ができたということが、労働運動の敗北やという側面は側面として持っていると思うけど、だからといって振り回すんではなくて、同じ土俵に乗ってお互いに影響し合いながらまともな労働運動に戻していくという、そういう役割を、官の部分で自治労がやったのではないかと思っている。

s:まともな労働組合とは?

h:資本から独立はできないにしても、労働者の権利を第一に考えるというところ。景気の安全弁としての「期間工」「社外工」があって、労働組合がその職の打ち切りについては反対しないというのはあかんやろうという、やっぱり本工中心ではなくて労働者全体の要求が実現をしていくというような、そういう運動がまともな運動としてあるし、連合が鉄鋼を中心にして、産業政策に賛成していくのを労働運動の基本にするというのに対して、労働者全体の利益のためにやっていけるような、そういうものに変えていくべきだということ。

m:僕は、この分裂闘争の前後で解放運動の幅と視野が広がったと思っている。自治労の運動からは日常生活圏闘争という発想が、地域活動に活かされているし、自治労の方も、それ以降「反戦・平和・人権」の取組みとして大会議案書に「狭山」や「基本法」がのるようになって。ただ、今はそういう経過が忘れられようとする現状を危惧しているんです。

h:自治労もどんどん組織率が落ちてる。かつては人勧にしても5%6%とかいうのがあって、労働組合が何か獲ってきたという感じがあったわけだけど、それがない。別のものをつくらないと組織できないわな。解放運動もそうだと思う。やっぱり行政闘争が主体になっていた時期は大なり小なり獲得できたものが、今は見せられないという状況で、宮崎さんも言われるように、どういう風にみんなが助け合って生きていけるような地域社会にしていくのかという、そういうものを作り上げていくことが解放運動にも、自治労にも求められていると思う。

s:羽室武さんとして、今の時代何かこれをしよう、というのはありますか?

h:ないね。大震災は、虚脱感みたいな大変なショックやった。

m:結局、原発ね。僕らも原発反対と言いながら、便利さと豊かさで、あんまり言わなくなった。

h:世界でも珍しいことやね。廃棄物の最終処分場がどこにもないのに、どんどん原発が動いているというのは。それを今まで認めてきたんだからね。かつてソ連は北極海に捨てていて、ウラジオストックの原子力潜水艦の廃棄物は日本海にも捨ててた。それを共産党は「コストを考え安全第一に考えてる。資本主義は利益追求だが、社会主義の国ではいいのだ」と言ってきて、そういう党がいち早く原発をやめろと言っている。

s:やはり、3.11以降に気持ちがダウンしているということなんですか。

h:滅入ってるな。

s:それは現実の負の側面を羽室さんが誠実に受け止めることの証なのだと思います。また、いろいろと教えてください。今日はありがとうございました。